有史以来の経済成長を交換の発達という視点で説明する

2021年1月14日

一行要約:経済成長とは市場の拡大が交換量を増大させることである。産業革命とは経済成長がポジティブフィードバックとなり、さらなる市場の拡大と交換量の増大をもたらす現象である

要約

人類は交換を通じて豊かになってきた。豊かさとは交換そのものと言うべきである。その交換量は輸送費用を中心とした取引コストに制限を受ける。逆に輸送費用が低くなれば広い範囲を対象に商業を営むことが可能になり、市場が拡大される。市場が拡大すると様々な要因で専門化が高まり、生産性が上がり、投資を刺激し、多様なニーズを満たす様々な財やサービスの生産が始まる。これらは経済システムにポジティブフィードバックを与え、生産性をさらに向上させ、市場を再度拡大させる。また、交換のメリットは交換物の多様性と比例しており、商圏が拡大して様々な民族や気候における住民と貿易することにより交換の便益が増大する。

しかし輸送費用を下げる最もシンプルな要因は人々が近くに住み始めることである。人口密度が高まると少ない輸送費用でより多くの人と交換[1]当然、交換とは物々交換もお金と物を交換することも含む。よって売買・購入・販売と交換は同じ意味とする。できるようになる。実際、都市を形成することによって人類は最初の大幅な輸送費用削減を達成した。メソポタミアから始まった都市文明である。その後は輸送技術が重要になり、陸上輸送にくらべて数倍効率的な水上交通を利用した民族が海洋貿易を支配し繁栄した。古代の地中海、中世におけるインド洋とバルト海などがその例である。近世以降も輸送コストの改善は続き、運河、鉄道、スクリュー式船舶、自動車、航空機と新しい輸送技術が開発されるたびに市場と生産性が拡大していった。

人類最初の都市文明から最も新しい西洋文明まで、人類は交換コストを削減することで市場規模を拡大し、交換のメリットを最大化し、経済成長を実現してきた。


基本概念

分業は市場の大きさによって制限される

The division of labor is limited by the extent of the market.

アダム・スミス

経済成長としての交換の発達

経済成長とは豊かさの増加のことで、豊かさとは交換のことである。交換を行った場合のみ、人は自分では生産できない財やサービスを消費することができる。黄金を100キロ所有していても、現金をどれだけ持っていても、交換できる財やサービスが存在しないかぎり豊かとは言えない。すなわち豊かな社会とは交換が発達した社会である交換が発達した社会とは、取引コストあたり人口(Population per Transaction Cost)に一人あたりの交換量を掛けることで表現できる。

交換の発達度(市場規模)= 取引コストあたり人口 ✖ 1人あたりの交換量。

ここで取引コストあたり人口とは任意の取引コストでアクセス可能な地域に住んでいる人口になる。考え方としては、交換の発達度は一定の取引コストで何人の取引相手にアクセスできるか、そしてそれらの取引相手はどれくらい交換を行っているか(たくさん交換を行っている人ほど豊かだと言える)、という概念になる。このエッセイでは市場規模という言葉は上記の式の事を意味し、国や地域の経済規模という意味とは必ずしも一致しない点を留意してほしい。また市場の拡大とは右辺の2つの要素のうちどちらか一つが上昇することを意味する。すなわち、交通インフラの整備などにより取引コストあたり人口が増大する事か、生産性拡大などにより一人あたりの交換量が増える事を意味する。

人がより多くの物やサービスをより多くの人と交換できるようになることはその社会が豊かになったということであり、交換の発達度が上がることは経済成長に他ならない。このエッセイでは経済成長を交換の発達として論を進めていく。

取引コストあたり人口

取引コストあたり人口は新しい概念なので補足説明が必要になる。取引コストあたり人口を正確に計算するには、ある地点と一定額[2]分母である取引コストは1ドルで計算すべきか1,000ドルで計算すべきかは時代によっても変わるのでここでは議論の対象にしない。を設定して、その地点からその金額で任意の商品を運べる範囲を算出する必要がある。そしてその地域内に住んでいる人口をカウントする必要がある。この時、取引可能な範囲は円形になるとは限らない事に注意したい。実際の運送は、山や川を越える必要があったり、道路や季節風によって移動効率が影響を受けたりする。地形やインフラの条件によっては、取引可能な範囲がひょろ長くなったり、海をこえて飛び地のような形になる時もある。また、取引コストあたり人口は基本的には地点ごと(村や都市など)に計算する数字である[3] … Continue reading

取引コストあたり人口は経済学的に厳密な意味での市場規模と言える。市場は、政治的境界線、特に国境に囲まれた範囲を市場とすることがよくある。鮮魚の「日本」市場という言い方や、「メキシコ」の労働市場などという国別データを見ることは多い。しかし取引相手が存在する範囲は政治的境界線より小さい時もあれば大きい時もある。例えば鮮魚は移動する間に鮮度が落ちるので、港から遠くなるほど価格が上がる傾向にある。結果として全国に流通していない、水揚げ港の周辺地域のみを対象市場として流通している種類の魚もある。すなわち、そういった種類の魚の市場は日本という国ではなくてその港の周辺地方ということになる。また多くのサービス業者にとっての市場は今も昔も一つの都市より大きくなることはほとんどない(サービスを受けるために顧客が都市をまたいで移動することは多くないので)。メキシコの季節労働者は国境をわたりカルフォルニアで働くこともあり、この場合はメキシコの労働者にとって、自分の労働を売れる市場は国境を越えていると言える。フェニキア人もバイキングもインド洋のイスラム商人も政治的境界線をまたいで交易を行っており、こういった例は枚挙にいとまがない。交換を分析する上で、交換相手の集まりである市場と政治的境界線はわけて考える必要がある。

人口一人あたりの交換量

人口一人あたりの交換量とは、任意の個人が交換するすべての物やサービスの価値を足し合わせたものとする比較や合算のため価値を価格で置き換えることも可能だ。その場合、ある人がn個のアイテムを交換した時の交換量は以下の式になる(Pは価格、Qはそのアイテムの量)。

一人あたりの交換量 = P1Q1 + P2Q2 + P3Q3 ・・・ PnQn

歴史上の昔の社会や途上国の貧困層では、数少ない種類の物しか交換してないためnの数が減る傾向にあるだろうし、現代の豊かな社会では、質の向上を反映する価格の上昇が豊かさにつながるだろう。一人当たりの交換量とは一人あたりのGDPとほぼ同じ概念である。

交換が発達する2つの要素:コストとメリット

交換が発達するには2つの要素がある。1つ目は取引コストが低い事である。そして取引コストのなかでも大きな影響を与えるのが輸送費用[4] … Continue reading[5] … Continue readingである。輸送費用が低いほど遠くの人と交換でき、取引コストあたりの人口が増加し、多くの交換相手に商品を提供できる。また顧客は長距離を移動してサービスを受けることができる。言い換えると、輸送インフラや輸送技術の発達により輸送費用が削減されると市場が拡大すると言える。

交換の発達度に関する2つ目の要素は交換から得られるメリットについてである。交換物のメリットは取引されている商品の多様性に比例する小麦だけを買うよりは、小麦と魚の両方を買えるほうが栄養的にも食文化的にも効用が高いし、ジュースはコーラだけでなく様々な味のジュースが販売される方が個人の好みに合わせた消費ができる。工作道具や設備は種類が多い方が最適な手段で生産出来るので効率は高まるし、場合によってはそれが産業全体へ好影響を与えるかもしれない。経済が発達して専門化が進んだ社会は多様な物やサービスを生産できるようになり、社会におけるメリットが大きくなる。また交易距離が長くなればなるほど異文化や異なる気候の地域と貿易することが可能になり、多様な商品を売買することができるようになる。例えば毛皮や皮革製品をコンスタンティノープルやモスクワまで運んだバイキングも、アジアからのスパイス運んだイスラム商人や大航海時代の船乗りも、ヨーロッパ人が享受する交換のメリット増大に大きく貢献していた。交換のメリットは交換物の多様性に比例し、歴史的には交換物の多様性は交易距離に比例すると言える。

すなわち輸送システムの発達は取引コストを削減し交換のメリットを向上させるので2つの効果で交換を発達させる。そして、交換における取引コストとメリットはお互いにポジティブフィードバックを与える。

ポジティブフィードバック

経済成長におけるポジティブフィードバックとは需要増が供給量を増加させ、供給増が需要量を増加させるというプロセスである。これは都市が形成されたり交通システムが発展して取引費用が大幅に削減されたときに顕著に発生する。このプロセスは2つのステップに分けると理解しやすい。

1つ目のステップは、需要増加が供給を増加させる効果である。輸送技術が向上したり、交易インフラが整備されると取引コストあたり人口が増え、より多くの人と交換が可能になり、それは市場の拡大を意味する。市場の拡大は需要の増大を意味し、それは生産量増大につながり、規模の経済をつうじて低価格での生産が可能になる。また市場が拡大すると生産性が上がり、投資機会が増え、多種多様な製品の生産が実現する。これらの多様な商品の一部は消費者に消費物として使われ、消費者の厚生を向上させ、それはすなわち社会が豊かになることを意味する。そして増大した供給が需要を増やすことが二つ目のステップである。例えば、供給を上げるために必要な投入物の需要が増大したり、補完財の需要が増大したりする。需要が増えた補完財や投入物については1つ目のステップである需要増加の効果が再度発生し、以下同じことが繰り返される。こうしてポジティブフィードバックが発生し、さらに経済が成長する。なお、種類が増えた生産物のなかには交通技術やインフラの場合もある。運河や鉄道の発明や改善は市場に対する影響はさらに大きく、産業革命の大きな要因になった。(ポジティブフィードバックについての詳細は、詳細:市場拡大のポジティブフィードバックを参照)


歴史

交換という視点から分析すると経済は歴史において以下の3つの原因により大きく成長した。

第一種経済成長:都市商業

時代:人類最初の都市から近代まで
地域:第二種経済成長と第三種経済成長が発生しなかったすべての都市(広域交易を行わなかったすべての都市経済)
交換の特徴:近くに住むことによる取引コスト減少
交換の範囲:都市

都市が発生するまで人類は分散して住んでいた。集落に集まって居住しても数百人程度の人口が一般的であり、他の集落との交易は限定的だった。取引コストあたりの人口が極端に少ない状況だったといえる。集落内での交換は多少あったと想像できる。手先が器用な人が矢尻を作って他の村人にあげたり、肉体的に強い個人が村の土木工事を率先しておこなったかもしれない。しかしそれらが一つの職業となるケースはほとんどなく、専門性も生産性も低かった。

人類はメソポタミアに集中して住み始めた時に交換に発生する輸送コストを大幅に削減した。一つの集落から別の集落まで物を運んで交換することは輸送コストが高すぎて実現困難だが、都市内では輸送コストはほとんど必要ない。言い換えると、取引コストあたりの人口が増えたことになるし、市場規模が拡大したとも言える。手先が器用なナイフ職人にとっては村に住むよりも都市に住む方が自分の生産物を購入してくれる顧客は数倍にあがったことだろう。都市に住むことによって自分の市場を大幅に拡大したことになる。これはナイフ職人だけでなくほとんどの生産者に同じことが発生した。市場の拡大が経済にポジティブフィードバックを与えたことにより、都市経済は規模と複雑性を拡大させ、人類は最初の大幅な経済成長を実現した。

文明といえば巨大な神殿や着飾った統治者イメージすることが多い。言い換えれば、そういった文明のシンボルともいえる文物を製作する様々な技術をもった生産者や職人が潤沢に存在することが文明の必須条件であると言える。神殿の材料になる石を切る石切職人、石切職人がつかう道具を作る職人、統治者が着る服を縫い合わせる職人、布を作る職人、それら職人が使う道具を作る職人、などなど。これらの職人は自分たちの専門に特化した生産活動をおこない、彼らの技術が組み合わさって文明が作られた。文明の発生理由として農業生産性の向上やソーシャルサープラスがあげられることがあるが、それだけでなく発達した交換とそこから生まれる専門性をもった多様な生産者が文明が発生する重要な条件だった。そして専門性を持った様々な生産者は都市に発生した高度な経済の証だと言える。

その後、都市文明は地球上の様々な地域や大陸で発生し、一部の地域では統治エリアを拡大させた広域王朝や帝国が誕生した。ただし市場規模(経済的境界線)と政治的境界線の違いを理解することは重要である。水上交通が利用できない地域では陸路で輸送するしかないが、陸上輸送の効率は水上輸送に比べて大幅に劣っていた(詳細は次節参照)。そういった社会においては交易の輸送コストは高く、取引コストあたり人口は都市商業とあまり変わらなかっただろう。すなわち、地図の上で大きな国家が必然的に大規模な経済圏を構築したというわけではなかった。

第二種経済成長:水上交易

時代:ギリシャ文明から中世まで
地域:ギリシャ文明、ローマ文明、インド洋イスラム交易、中世ヨーロッパ貿易(北海・バルト海貿易とレヴァント貿易)、江戸期の日本
交換の特徴:水上交通による広域貿易
交換の範囲:海域レベル

都市の次に経済成長させた要因は輸送コストの大幅削減を実現した水上交通である。中長距離において輸送コストが一番低いのは、古今東西、船である(水上交通は陸上交通にくらべて数倍効率が高い。詳しくは、水上輸送の効率性についてを参照)。効率的な輸送手段である水上輸送を得た商人達は商圏を拡大させ、海洋レベルの経済圏をつくった。ただし、地球上に数多く発生した王朝や帝国に比べて海洋経済圏を作った地域は限られている。古代の地中海世界、中世インド洋におけるイスラム商人、中世ヨーロッパ貿易(北海・バルト海貿易とレヴァント貿易)が数少ない例である。これらの社会では高度な商業社会が構築され、往々にして科学技術や学問の興隆が見られた。

人類最初の水上交易を発展させたのは古代の地中海地域である。ギリシャの島々やイタリアの長い海岸線には港に適した場所がたくさんあるし、インドや中国とちがって海上輸送にアクセスできない内陸部がほとんどない。当時の人口地域であるエジプトや北アフリカとも近く、交易に有利な条件がそろっていた。フェニキア人(後にカルタゴを建設することになる)から始まった地中海交易はギリシャ人、そしてローマ人と続き、ローマ帝国の時代に最盛期をむかえた。ローマ人の食料はエジプトを中心とした北アフリカで生産され、外港であるオスティアまで海上輸送され、そこからローマに運び込まれた[6]参考:http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/ys00702.pdf?file_id=6989。最盛期のローマには100万もの人が住んでおり世界最大級の都市だったが、その人口を支えたのは水上交易だった。また、象牙や真珠などの貴重品だけでなく、肉類・衣類・革製品といった日用品も水上輸送を利用して地中海各地からローマに運び込まれている。まさに地中海が一つの経済圏になったと言える。

古代地中海貿易の次に活発化した水上交易は中世におけるヨーロッパの貿易とイスラム教徒によるインド洋貿易である。時期的にはインド洋交易の方が少し早く活発化している。イスラム商人は7世紀ころから紅海とアラビア海の海上貿易に進出し、その後はアフリカ東海岸とインド、最終的には東南アジアまで交易圏を広げている。イスラム教徒の活動により東アフリカではスワヒリ語とスワヒリ文化が生まれ(スワヒリ語はアフリカの言語とアラビア語が混じった貿易語)、インド大陸と東南アジアでは多くの人がイスラム教徒に改宗した。イスラム商人は中国南部にも進出しており、広州にはイスラム商人の居住区もあったし元の時代には泉州の貿易業務を管理する役職についた者もいる。イスラム商人は様々な商品を扱ったが歴史的な影響が一番あったのはスパイスであり、スパイスを通じてインド洋交易と中世ヨーロッパ貿易はつながっていた。

ヨーロッパ大陸の特長は長い海岸線と豊富な通行可能な河川である。地中海だけでなく北ヨーロッパも海岸線は長く入り乱れているので多くの港をつくることができる。河川は内陸部まで水上交通を可能にし、効率的な輸送手段にアクセスしやすい地域を広げた。ロンドンもパリも河川交易の拠点として発達したし、ライン川の水運は昔からヨーロッパの大動脈だった。バイキングはロングシップと呼ばれる喫水が浅く川を航行しやすい船でヨーロッパ中の河川で交易をした[7]バイキングは海賊のイメージが強いが、実際は略奪と同時に交易も行っており、むしろ収益の方が高かったとも言われている。。海上交通と河川舟運は互いに繋がりヨーロッパ人にとっての市場規模をさらに拡大させた。

中世ヨーロッパ貿易は地域的には大きく2つに分けられる。一つは北方の北海・バルト海貿易であり、もう一つはヨーロッパ人と中東のイスラム教徒が行った東地中海地域のレバント貿易[8]東方貿易ともよばれる。レバントとは「(日が)昇る」という意味のラテン語から来た言葉。である。10世紀ころに始まったレバント貿易は十字軍が始まると北イタリアのジェノヴァやヴェネツィアが中心になりますます盛んになった。主な交易品はイスラム教徒がアジアから運んできたスパイスだがそれに加えてヨーロッパで生産された羊毛製品やスラブ人の奴隷なども取引された。なお、レバント貿易は12世紀ルネサンスが発生した一つの原因になっている[9]12世紀ルネサンスとはキリスト教徒が当時最先端の文明を築いていたイスラム教徒から学問的影響を受けたことをさす。。北海を含めたバルト海交易は11世紀ごろから盛んになっている。勃興する商業は自治権を認められた自由都市を生み、それらの諸都市(最盛期には70を超えると言われる)がハンザ同盟を成立させる。14世紀にはハンザ同盟は当時の大国であるデンマークとの戦争にも勝利するほど力を持つことになる。

バルト海貿易の交易物は穀物、木材、毛織物、海産物などの生活必需品が中心であった。レバント貿易はスパイスなどの奢侈品で中心ではあるが、穀物も売買されている。これらの交易で貿易業務を行ったのは商人であるが、生産をしたのは農家や漁民など一次産業に従事した人たちである。整備された交易システムが市場を拡大し、様々の商品に対する需要を増加させ、それが一次産業の生産向上に一定の役割を果たした点は想像にかたくない。実際に中世ヨーロッパでは、鉄の生産や農機具の改善により農業生産性が向上しており、三圃制(農地を3分割して耕作地と休耕地を変えていく手法)などの農業技術も発展している。また11世紀から13世紀の間は大開墾時代といわれ、農作面積も向上した時代であった。北と南で発達した遠距離交易がヨーロッパの農民にとっての取引コストあたり人口を増大させ、高まる需要に合わせるように農業生産量を向上させていった。すなわち、水上交易を通じて大きな市場とつながったヨーロッパの農村と都市部はたがいに交換量を増やし、経済を発展させていった。

中国やインドは人口が多く農業生産量はヨーロッパより高かったかもしれない。しかしヨーロッパほど海岸線が長く、同時に河川が発達しているわけではなかった。大きな大陸の奥地に広がる農村は効果的な輸送手段にアクセスできず、経済的に隔絶された状況にいた。それは高い輸送コストにつながり、取引コストあたりの人口は少なくなり、市場が小さいことを意味する。交換に参加することができない多くの農村社会は経済的に発展しないままだった。

ヨーロッパに比べると規模は小さくなるが、江戸後期の日本も水上交易を発展させた国の例である。一つの国としての海岸線の長さはヨーロッパ諸国にも劣らず、全国に港町が発達した。河川舟運や西廻り/東廻り航路が確立し、大阪と江戸を中心に内陸部を含めて日本全体が一つの商圏になった。すなわち取引コストあたりの人口が増大した。大きい市場は多くの職業を生み、交換量が増えていった。造船業と船乗りに従事する人が増え、市場が立ち、豪商が生まれた。大阪の堂島米市場では1730年からデリバティブ取引が行われていたが、これは世界最古の先物取引だと言われている(海外のデリバティブ取引はシカゴ商品取引所が開設される1848年まで待たなければいけない)。また、投機的取引も盛んに行われていたし、相場情報を伝える手旗を使った情報ネットワークは九州から江戸まで広がっていた。

植民地化されることなく速やかに近代化した国は欧米と日本だけである。ヨーロッパと日本という2つの例しかないが、水上商業を構築した国家だけが近代商業国家を築くことができたという観察は十分に可能である。

江戸後期における水上交通マップ
海上航路だけでなく河川交通も記載されている。なおこの図にはないが薩摩藩は琉球との交易で継続的に利益をあげていた。
引用元:http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no01/02.html

第三種経済成長:近代商業

時代:近代
地域:欧米と日本
交換の特徴:緻密に張り巡らされた国内交通網と交易インフラを通じてのグローバル貿易
交換の範囲:グローバル

近代商業も市場が拡大することで経済が発展した。第一種経済成長は人が都市に集まって住むこと、第二種経済成長では水上交通を利用することで輸送コストを下げ取引コストあたりの人口を向上させた。第三種経済成長は交易インフラ[10] … Continue readingを活用することで交易範囲が拡大していった社会である。商圏がグローバルレベルに拡大したため貿易は企業が行う大規模なものになり、多くのリソースを費やして、より多くの商品をより少ないコストで売買できるようになった。また、貿易拠点や運河や鉄道など様々な資産やインフラが整備され、効率的な交易システムが構築された。遠距離貿易は莫大な利益を産み、発達した金融システムがリスクと期待利益を評価し、必要に応じて証券化し、第三者からの投資を可能にすることによりさらに大規模な交易が可能になった。

交通の距離という意味では、近代商業における交易インフラは地球規模の遠距離交通が可能になった点と、国内レベルの中短距離交通が拡充した点の2つが重要である。大航海時代と植民地の建設による商圏拡大は前者を意味し、遠距離の人との交換が可能になった。運河や鉄道の整備による中短距離交通の拡充は後者を意味し、ヨーロッパ諸国における効率的な交通にアクセスできる人口を増やした。この2つの交通インフラのためにヨーロッパのほとんどの人口と地球規模の市場が効率的に結ばれることになり、それは取引コストあたり人口がかつてないレベルに上昇したことを意味する。

交易インフラを活用し人類市場最大の経済成長をもたらした近代商業の特徴を4つに分けて説明する。

1)大航海時代と植民地経済の発達:近代商業の幕開けは大航海時代にはじまる。商人が世界の海を動き回り商品を売買することによってヨーロッパを中心にした世界市場が誕生した。船で海を渡り交易するという点では第二種経済成長の水上交易と似たように思われるが、実際は大航海時代にはいくつかの大きな特徴がある。[11] … Continue reading

大航海時代の1つ目の特徴は第三者からの出資である。初期金融システムの発達とも言える。コロンブスの航海はスペイン王室とフィレンツェの銀行家が出資し、マゼランの航海はドイツのフガー商会が出資している[12] … Continue reading。大航海時代後期には世界最初の株式会社が生まれた。人類最初の巨大企業であったオランダ東インド会社は最盛期に150隻の商船、40隻の軍艦、5万人の従業員、1万人の兵士を運用して経済活動を行っていた。発達した金融システムのためにヨーロッパは利益を生む活動に多量の資源を分配できるようになり、遠距離かつ大規模な交易が可能になったと言える。2つ目の特徴はスパイス貿易の巨大な需要とそこから生まれる利益である。一つの経済圏になっていたヨーロッパはスパイスに対する巨大な需要をもたらしていた。ポルトガルやオランダの船が東南アジアから戻ってきた後、スパイスは海や川の航路を通じてヨーロッパ中に運ばれていった。顧客が多く需要が高いため値崩れもせず、航海から帰港すれば安定した収益を上げることができた。そして高い利益率は船員を雇う必須条件だったと言える。大航海時代においては、栄養不足や戦闘行為の発生など様々な理由で死傷者が発生した。一説には死亡率は70%に達したともいわれるが、それでも船員が後を立たなかった理由は、大きな利益の一部を配分してもらうだけで貴族並みの金銭を受け取ることができたからである。航海は投資対象であり、遠距離から運ばれるスパイスは投資者と船員の両方に、リスクとコストを超える十分な利益をもたらした。スパイス貿易は交換のメリットは交易距離に比例するといういい具体例である。

大航海時代と植民地建設の一つの帰結はグローバル経済圏の誕生である。植民地は航海ルート上の交易拠点を通じて本国の経済に組み入れられ一つの巨大な市場として機能するようになった。交易拠点と航海ルートがインフラストラクチャとして機能し、市場の拡大を実現したのである。この統合された巨大市場は産業革命が起きる重要な下地となる。

2)運河と第一次産業革命:長い歴史の間で常に河川は内陸交通の大動脈であったが、運河は河川をつなげることにより国内物流を大幅に向上させた。最初に運河を建設し始めたのはベネツィアやオランダやフランスなどのヨーロッパの大陸人である。フランスは地中海と大西洋を結ぶミディ運河を1681年に開通させている[13]正確にはミディ運河は地中海からトゥールーズまでをつなげ、そこから大西洋まではガロンヌ川を通る。。ミディ運河は運河沿いにあるボルドーやラングドックなどにあるワイン産地の生産を増大させ、また2つの海を結ぶ大量輸送ルートになった。その後、本格的な運河建設が英米で始まる。1761年にウォーズリの石炭をマンチェスターに運ぶためブリッジウォーター運河が開通した。運河による輸送コストは陸上輸送に比べて3割ほどだと言われており、実際にこの運河によりマンチェスターの石炭価格は半分ほどになった。その後、イギリスでは特に1760年から1830年いおいて運河時代と呼ばれるほど運河建設が盛んになり、合計で6,400キロもの運河が建設されている(参考までにロンドンとグラスゴーの直線距離は555キロになる)。河川と合わせるとイギリスの津々浦まで水上交通で結ばれるようになり、商品もその原材料も運河ボートで運ばれるようになった。

国の内陸地帯では、長いあいだ、その周辺の地方以外にはその財貨の大部分にとっての市場がなくて、海岸や航行可能な大きい河川から隔絶されていた。

アダム・スミス

運河の建設による輸送コストの削減は、内陸部の取引コストあたりの人口を向上させる効果がある。水上交通の恩恵を受けられるのは港や河川の周辺地域だけであり、そこから離れるにつれて追加で陸上輸送のコストが発生する。舗装されてない道路(当時は雨が降ると通行できなくなる道路もあった)を馬や徒歩で運送するしかなかった時代においては港や運河から離れた場所で発生する追加の輸送コストはかなり高かった。アダム・スミスはその状態を「河川から隔絶されていた」と表現している[14] … Continue reading。しかし、運河が整備されることで水上交通にアクセスしやすい人口が増え、その人達がイギリスの経済に組み込まれた。すなわち、低い取引コストでアクセスできる人口が増えた。

産業革命は遠距離交易と国内に張り巡らされた運河を用いた中短距離交通が結びついた歴史的事件だと言える。産業革命初期の発明品であるジェニー紡績機は小型で人が糸を紡ぐ必要があるため農村でも紡績されたが、材料も生産品である糸も運河を通じた水上交通によって運搬された。また、発明の連鎖で格段に向上した生産力をもったイギリスは発達した交易インフラのおかげで自国の綿製品を植民地であるインドで売ることができた(インドはイギリスからの綿製品を輸入するようになったため自国の綿生産が壊滅的な打撃をうけている)。すなわち、発達した運河と遠距離貿易がイギリスの農村とインド市場を結びつけたと言える。国内の交通網を津々浦々まで発達させ、数々の発明で綿製品の生産性を向上させ、地球の反対側にあるインド植民地で販売したことが産業革命の全体像だと言える。

3)第一次産業革命以降の交通の発達:第一次産業革命の後も、交通インフラの拡充は続いた。1830年にマンチェスター・リバプール鉄道が開通し商業的に大きな成功を収めた。当時のイギリスは株式を通じて資金を調達する手法が一般化しており、その後の1840年代はイギリスでは鉄道狂時代とよばれるほど鉄道敷設に資金が集まっている(イギリスでは運河建設も株式を通じてファイナンスされている)。1848年の時点で鉄道路線は8000キロを超えて、全国の主要都市がすべて鉄道で結ばれることになった。1860年には16,000キロを超えている。大陸欧州やアメリカでも交通インフラの整備は急速に進んだ。特にアメリカは国土が広こともありイギリスを大幅に超える距離を整備しており、19世紀の間に約40万キロの鉄道を敷設している。

産業革命はイギリスの後に他の欧米諸国に広まったが、始まった年代は次の通り。イギリス以外で最初の産業革命がはじまったベルギーで1830年代、フランスが1830-1860年代、ドイツが1840年代、アメリカが19世紀後半、日本は1980年代とされている[15]産業革命の年代については明確でなく文献によって多少のズレがある。特にアメリカとフランスは革命と内戦のために多少幅がある。。これらすべての国で鉄道が整備され(産業革命については後発であるイギリス以外の大半の国は運河の敷設をスキップして鉄道の整備を開始している)、取引コストあたりの人口を増大させ[16]またヨーロッパは19世紀において人口を倍増させている、大きな市場を構築できた。

第二種経済成長の水上交易を達成した社会はほぼすべて産業革命を達成しており(インド洋交易を行っていたイスラム社会が唯一の例外になる)、逆に第二種経済成長を達成できなかった社会はすべて産業革命を実現できなかった。

4)ポジティブフィードバックの例:市場拡大から発生するポジティブフィードバックは第一種経済成長でも第二種経済成長でも発生していたと考えられるが、具体的に因果関係がはっきりした形で例証できるのは第三種経済成長である。ポジティブフィードバックが具体的にどのように発生して経済発展に結びついたのか具体例を2つ挙げてみたい。

1つ目の例は第一次産業革命が発生したプロセスである。イギリスが世界に構築した植民地は一つの大きな市場になった。インドとの遠距離交易により綿製品の価値が広まったイギリス社会では綿製品の需要が増大しイギリス国内での生産が始まった[17]実際にはイギリス政府はインド製綿製品の輸入を一時禁止しており、それが直接のきっかけとなって国内での綿製品生産が始まっている。。拡大した需要に対して飛び杼(とびひ)という一つの技術革新が起き、織機工程の生産性が大幅に向上した(供給増加)。綿織物工業はおおまかには糸を生産する紡績工程と糸から布を生産する織機工程の2つからなるが、飛び杼は後者についての技術革新である。結果として綿製品の生産量が増大し、それが綿製品市場の拡大につながった。綿製品が多く生産されると、それは糸の需要増を引き起こす(需要増加)。糸の需要増大は、ジェニー紡績機やアークライトの水力紡績機などの発明につながり、それが紡績工程の生産性向上につながった。紡績機の生産性向上は糸の供給が増加につながり(供給増加)、そのため綿製品の生産量が増大し、再び綿製品市場の拡大につながった。綿製品の生産拡大はボトルネックである織機工程の需要を再び増大させ(需要増加)、それはカートライトの蒸気織機の発明につながった(供給増加)。すなわち、最初の飛び杼から始まった発明は綿織物産業の様々な生産プロセスにおいての需要と供給を増大させ、それがポジティブフィードバックとして産業全体の生産性と市場を拡大していった。(上記プロセスにおける紡績工程と織機工程はたがいに補完財である。片方の供給増がもう片方の需要増を生む。)

2つ目は鉄道の発展と旅行関連サービスの始まりである。運河と同じように鉄道は植民地経済と産業革命の実現を担った新しい産業の一つとして発展した。港で多量の綿花が列車に積み込まれ繊維工業が発達している地域まで輸送され、そこで綿花は綿織物に加工され、完成品は同じ鉄道で再度港に運ばれて、そこから最終的に植民地へ向けて輸出された。すなわち植民地経済と産業の発達による市場の拡大は国内輸送ニーズを大幅に上昇させた(需要増加)。鉄道輸送の需要拡大は、蒸気機関や鉄製レールなどの技術革新を生み、生産性を向上させた。そして効率的になった鉄道業者は、運送価格を下げ、時刻表による定期運行を開始した(供給増加)。そして低価格な鉄道輸送は旅行サービスの需要を増大させた(需要増加)。これが近代旅行業の発展につながった。近代ツーリズムの祖として知られるトーマス・クックは低コストな移動手段である鉄道を活用した団体旅行を始めた。彼が始めた団体旅行の一つの特徴は低価格であり、順調に顧客数を伸ばしていき、1851年のロンドン万博開催時には15万人分の旅行を販売している(供給増加)。この急増した旅行客は旅行に関連する新しい需要を生み出した(需要増加)。新しい需要を満たすために、トーマス・クックは時刻表が記載されたハンドブックを販売したり、後にはトラベラーズ・チェックの原型となるサーキュラーノートやホテルクーポンを販売したりしている(供給増加)。これは旅行市場が増加したことによる効果であると同時に最初に植民地の拡大から始まった影響のポジティブフィードバックとも言える。

なお、ポジティブフィードバックのプロセスを追えるように前掲のチャートを再度掲載しておく。


まとめ

経済の発達は交換の発達そのものである。人は交換によってのみ豊かな生活ができる。交換は取引コストに規定され、取引コストが下がることが経済発展の重要な要因だった。

都市の発達や運河の発達により取引コストがさがると、市場規模が大きくなり、需要が増加する。生産者は活動規模を拡大させ、投資量を増加させ、専門化された多くの種類の製品を生産始める。専門化された多様な製品は消費者の豊かさを向上することになる。

これらの経済成長は、都市の形成、水上交易の発達、近代商業の発達において顕著に観察された。特に近代商業は近代的運送システムが発達した時期でもあり、取引コストあたり人口が大幅に上昇し、それに合わせて交換の発達度も向上した。


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References

1 当然、交換とは物々交換もお金と物を交換することも含む。よって売買・購入・販売と交換は同じ意味とする。
2 分母である取引コストは1ドルで計算すべきか1,000ドルで計算すべきかは時代によっても変わるのでここでは議論の対象にしない。
3 国や地域のように広がりを持つ対象に関しては、対象地域のすべての地点で取引コストあたり人口を計算して、それで人口を用いた加重平均を出す形になるが、その数字が重要になるケースはあまりないと思われる。
4 輸送費用は商品を運ぶコストと人を運ぶコストの両方を意味する。人の移動コストが低い場合、遠いところに存在している顧客に対してもサービスを提供できるためサービス業にとっての市場拡大を意味する。
5 外国語の問題や関税など、輸送費用以外にも取引コストはある。しかし輸送コストは長い歴史で、常に多くの人に影響を与えてきた要因である。関税は撤廃されることもあるし外国語は商人が学習したり貿易語が発生することで取引に影響がなくなることがある。また関税も外国語の問題も国際貿易にしか影響しないが、輸送費用は国内商業と国際貿易の両方に影響をおよぼす。特に輸送技術やインフラが発達してなかった時代においては隣の町や地域に商品を移動させるのにも高いコストが発生していた。そして輸送コストについては古代から現代まで常に交換を制限し続けている。21世紀になっても商業活動はほとんど国内で完結しているか近隣諸国との貿易として行われており、遠距離にある国との貿易はすくない。この稿では取引コストのなかでも輸送コストを中心に論をすすめる。
6 参考:http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/ys00702.pdf?file_id=6989
7 バイキングは海賊のイメージが強いが、実際は略奪と同時に交易も行っており、むしろ収益の方が高かったとも言われている。
8 東方貿易ともよばれる。レバントとは「(日が)昇る」という意味のラテン語から来た言葉。
9 12世紀ルネサンスとはキリスト教徒が当時最先端の文明を築いていたイスラム教徒から学問的影響を受けたことをさす。
10 交易インフラとは交易を活性化させ効率的に行うためのインフラを意味する。交通インフラを含むがそれだけでなく、交易ルートにある交易拠点(必要物資の補給や船の補修ができる拠点であり大航海時代に特に重要だった)、季節風に関する知識、航海技術、植民地、なども含む。また、株式会社や保険など、商業活動のリスクとリソースを管理する金融システムも含む。
11 なお、大航海時代が航海技術の発達により始まったという説は成り立ちにくい。航海に重要なコンパスは中国で発明されその後にイスラム商人もインド洋航海で活用するようになっていたが彼らが遠距離海洋貿易を始めたわけではない。造船技術もヨーロッパは劣っていた。中国の鄭和は15世紀の前半に7回の大航海をインド洋にむけて行ったがその時の船の大きさは全長約130メートル、幅が約50メートル。コロンブスの航海において最大の船は全長24メートル。積み込める食料も嵐に耐える能力もコロンブスの船は大幅に劣っていた。
12 第二種経済成長が発生している社会においても第三者が出資して航海を行うことはあったが、一般的と言えるほどではなくそれがリスクが高い遠距離交易を実現するほどではなかった。
13 正確にはミディ運河は地中海からトゥールーズまでをつなげ、そこから大西洋まではガロンヌ川を通る。
14 なお、水上交通から隔絶されている地域の経済発展度が低いというのはマクロレベルでも観察できる。ヨーロッパは歴史的に西ヨーロッパの方が東欧やロシアより経済的に発展しているし、中国でも内陸部より沿岸部の方が発展している。
15 産業革命の年代については明確でなく文献によって多少のズレがある。特にアメリカとフランスは革命と内戦のために多少幅がある。
16 またヨーロッパは19世紀において人口を倍増させている
17 実際にはイギリス政府はインド製綿製品の輸入を一時禁止しており、それが直接のきっかけとなって国内での綿製品生産が始まっている。