意思決定のフレームワーク | データに基づく意思決定を評価する

2021年1月28日

一行要約:政策目的が明確になってない状況やデータが充分に揃ってない状況でデータに基づいた意思決定しても誤解を招いたり意図しない結果を生んだりする。

組織も個人も様々な状況で様々な意思決定している。そして意思決定するにあたっては、たとえ無意識であっても、目的とそれを達成するための手段を検討する。その手段を実行して目的を達成できると感じたら実行するだろうし、達成できないと感じられたら実行しないだろう。(なお、意思決定の主体は個人と組織の両方を想定し、意思決定の内容は、受験勉強をするか否かなど個人的な事や経営方針や社会政策の決定まですべての意思決定を含むとする)。

合理的に意思決定するにはいくつか重要な条件があるが、それは目的・手段の内容・手段の量・目的達成の可能性がどれくらい明確になっているかだ。これらの条件は具体的には以下をさす。

  1. 目的:意思決定するにあたって目的は明確化されいてるか?達成度合いは試験の合格や収入の向上など、数字や合否などで客観的に測れるか?売上の増加やPISAの点数などであれば明確に測れるが、そうでない場合もある。育児や教育政策の目的をテストの点数とすると明確だが、子供の幸せと定義すると途端に数値化できなくなる。後者の方が子供本人と親にとって重要であることは明白であるが、社会政策として子供の幸せを向上させようとするとデータに基づいた政策決定は極端に難しくなる。
  2. 手段:手段は明確に定義されているか?志望校に受かるための手段は「勉強をする」だけでは十分でない。勉強の内容や方法が明確になった手段でないと意思決定の前に検討すらできない。その点、社会政策の場合は事前に政策内容が細かい点まで決められることが多いだろう。
  3. 手段の量:教員のトレーニングに投資するという手段や子供を塾通いさせるという手段があった時に、どれくらいの量(=時間)のトレーニングや塾通いか明確でないと厳密に検討することはできない。
  4. 目的達成の可能性:ある目的に対してある手段をある分量だけ実行した時にどれくらい目的達成の可能性があるのか。

そしてこれらの条件がどれくらい満たされていかによって3つの状況に分けることが可能だ。

・Strongly Empirical : 上記4つの全ての情報が検証されている状況。
・Moderately Empirical:上記4つのうち一つ以上の情報が検証されてない状況。
・Weakly Emprical:意思決定者にとってなんのデータもない状況。

Strongly Empiricalといえるのは医療における治療方法の決定くらいなものである。医療においては目的である人の健康的な状態というのは客観的に明確に定義できるし、また手段である治療法についても投薬における物質名も投与量も明確に決まっているし、治療が成功する確率もデータの蓄積がある。

医療以外の分野で意思決定に必要な情報がそろっていることはほとんどない。Moderately Empiricalな状況においては、上記4つのうち一つ以上について意思決定者が想像するか勘や習慣から当たりをつけるしかない。そこを間違えると、ほかの3つについて完全な情報がそろっていても間違った判断になるしデータに基づく意思決定とは呼べないだろう。また、Moderately Empiricalな状況において無理して数字に基づいて政策目標を設定したり意思決定したりすると意図しない結果を生んだりする(経営においてはKPIに基づいて経営判断をすることがよくあり、その重要性だけでなく、KPIの危険性も知られている。例えばKPI使うとよく起きるコブラ効果を参考)。

上記内容の視点から実社会を見てみると以下の観察が可能である。

1)個人が意思決定を行うにあたってはロジカルに判断するためのデータが存在しないことが多い

理由は世の中に存在するデータは、一般的な他人から得られたデータであり、自分と同じ属性や嗜好をもった人たちのデータは存在しない。例えば、IQ100の人だけに限定した東大合格率などは存在しない。あなたが身長175cmとして自分と同じ身長のピッチャーがプロに入れる可能性についてもデータがないだろう。自分という独自の能力や選好基準をもった個人にとっての目的達成の可能性についての情報がない場合(上記でいうところの4番)、データに基づいた判断はできない。

2)社会政策の意思決定については目的を数値で表現できないケースが多く、擬似的な数値目標を用いることが多い

社会政策は最終目標としては国民を幸せにするために策定されているが、幸せを客観的に測れる指標は存在しないので、擬似的に収入の多さであったり収入に影響があるとされる学生の学力や学歴などが政策目標とされることがある。国民や若者の幸福度は明確に測れないので擬似的な数値目標を持つことはしかたがないとはいえる。しかしこれらは擬似的な目標であるので、例えば学生のテストスコアを上げる重要度や費やす予算の量という判断は政策決定者の主観やeducated guessや歴史的経緯から判断することになる。例えばアメリカでは学校が生徒にプレッシャーをかけるケース[1]参考:Students in high-achieving schools are now named an ‘at-risk’ group, study says … Continue readingもあるが、その一因は学校の評価をテストという数字で評価する政策にある。擬似的な数値目標を用いて、かつ過度にその達成度合いを重視すると政策に歪みが生じてしまう。

また、外国のデータを元に意思決定する場合は、全く同じ手段や政策を実行できないケースもあるし、仮にまったく同じ政策であっても違う社会に適用して似たような結果がでるとは限らない。

結論としては2つある。個人ならばあまり自分のことをロジカルだとか合理的な人間だとか言わないほうがいい。個人において活用できる情報はあまりに少なく、データに基づいて意思決定できる状況はほとんどない。2つ目は、ある社会政策についてデータに基づいた意思決定かそうじゃないかというゼロイチで評価するのは生産的でない。その社会政策は上記4つの条件をどこまで満たしているのか、どのていどempricalなのか、などgradualityをもって評価されるべきである。

Note: なお、本稿はデータに基づく意思決定を批判しているわけではない。特に社会政策決定においては正しい政策決定ができるように可能なかぎりデータに基づくべきだし、必要に応じて予算を費やして調査や研究を行い、適切なデータを取得すべきである。しかし多くの政策が完全にデータに基づいて決定できない以上、それを踏まえた政策の評価や社会とのコミュニケーションが必要だということである。

References

1 参考:Students in high-achieving schools are now named an ‘at-risk’ group, study says https://www.washingtonpost.com/lifestyle/2019/09/26/students-high-achieving-schools-are-now-named-an-at-risk-group/